昨日の続きで、拓大紅陵の試合で印象に残っていることをざっと綴っておこうと思う。拓大紅陵の試合でわたしの印象にいちばん残っているのは、92年夏の決勝戦(拓大紅陵v西日本短大付)。この年の夏、様々な事情が重なったため、わたしはこの試合を仙台市内のとある病院の病室のテレビで見ていたと記憶している。最終回の拓大紅陵の攻撃で、二死二塁と同点の好機を再度迎えたとき、マウンドにいた森尾が投球できず涙を流していたことがあまりに印象的で・・・。テレビで見ていてもおせおせ紅陵(かっとばせ)が聞こえてきて、もの凄い雰囲気だと分かったけど、この一球を投げて試合に勝利するのがこんなに大変なことなのかという現実を見せられた気がして。しかもその最後の打者となったのが立川だったということも、この記憶をより鮮明にしている気がする。まぁ・・・この年齢になった今思えば、2回裏のスクイズのとき捕手はミットで三塁走者にタッチしたのだけれど、右手でボールを保持していたことが惜しまれるよね・・・(触球が不完全で生還を許したことはネットなどにも詳しく書かれていないけど)。
そしてこの試合と同じくらいわたしの記憶に残っているのが、88年夏3回戦の浜松商v拓大紅陵。糟谷という捕手がいて、最終回の攻撃の最後の打者だった。9回表の攻撃で拓大紅陵は一打逆転の好機を迎え、アルプスではチャンス紅陵が鳴り響いていたが、浜松商の投手(岡本だったか)の投球が最後は優った。年末の思い出甲子園で、その岡本がこの試合の最後の一球が一番よかったと言っていたのが忘れられない。この当時、拓大紅陵はしばしば東の横綱と言われていたものだが、前の試合で延長14回を戦っていた浜松商にやられるとは想像できなかった。
そして2002年夏1回戦の智弁学園v拓大紅陵。この試合は大会初日の第3試合で、わたしは翌日から甲子園球場へ行く予定にしていたのだが、まぁ初戦くらい勝つやろと思って甘く考えていたら相手投手が一枚上。帰宅してテレビをつけたときには9回裏でおせおせ紅陵が演奏されていた(試合は0-6で完封負け)。その2年後の春、甲子園球場で見た福岡工大城東v拓大紅陵もサヨナラ本塁打を打たれての決着だったしね。
こうしてみると負けた試合のことばかりが記憶に残っているけれど、ある本に書かれていたが、物事が完結に到る間際でプロセスが突然停止してしまったとき引き起こされる美的感情が、日本人特有のもののあわれなのだとか。勝って次のある試合に立ちあうより、はかなく敗れた試合のほうが、美しい記憶として残るものなのかもしれないね。合掌。
そしてこの試合と同じくらいわたしの記憶に残っているのが、88年夏3回戦の浜松商v拓大紅陵。糟谷という捕手がいて、最終回の攻撃の最後の打者だった。9回表の攻撃で拓大紅陵は一打逆転の好機を迎え、アルプスではチャンス紅陵が鳴り響いていたが、浜松商の投手(岡本だったか)の投球が最後は優った。年末の思い出甲子園で、その岡本がこの試合の最後の一球が一番よかったと言っていたのが忘れられない。この当時、拓大紅陵はしばしば東の横綱と言われていたものだが、前の試合で延長14回を戦っていた浜松商にやられるとは想像できなかった。
そして2002年夏1回戦の智弁学園v拓大紅陵。この試合は大会初日の第3試合で、わたしは翌日から甲子園球場へ行く予定にしていたのだが、まぁ初戦くらい勝つやろと思って甘く考えていたら相手投手が一枚上。帰宅してテレビをつけたときには9回裏でおせおせ紅陵が演奏されていた(試合は0-6で完封負け)。その2年後の春、甲子園球場で見た福岡工大城東v拓大紅陵もサヨナラ本塁打を打たれての決着だったしね。
こうしてみると負けた試合のことばかりが記憶に残っているけれど、ある本に書かれていたが、物事が完結に到る間際でプロセスが突然停止してしまったとき引き起こされる美的感情が、日本人特有のもののあわれなのだとか。勝って次のある試合に立ちあうより、はかなく敗れた試合のほうが、美しい記憶として残るものなのかもしれないね。合掌。